つぶやき。
つぶやき。
あたしの世界の中でのお話。
どうして人間って、いろいろな方法で自分自身を罰するんだろう?
自分を罰するために相手をキズつけたり、
自分をキズつける事で自分を罰したり、
本当の自分で生きない事で自分を罰したり、
(自分を罰するために本当の自分で生きないようにしたり)
自分を罰するために罪の意識を感じるような事をしたり、
潜在意識の空間で、真実ではないものを思い込んで自分を罰したり。
(自分自身を罰するために、潜在意識で真実ではない事を思い込んだり)。
人間全員じゃないかもしれないけれど、
自分を罰すれば神様から許されるや、
自分を罰すれば神様や、神様以外の母親だったり父親だったり、
誰かだったりから愛される、認めてもらえる。
って思い込んでいると思うけれど、
その潜在意識の思い込みも、真実ではない事を思い込んでるし。
人間全員じゃなくても人間は、
真実ではない事を思い込んで苦しめば、
神様から許される、愛される、認めてもらえるって思い込んでるのかな?
でもこの思い込みも真実ではないし。
このループなんなんだろうね?
どうしたもんかなぁ・・・って感じ。
Aliceさんのブログ記事であたしは、
「許し」に関する事や、
「自分の全てを受け入れる、認める、愛する」
という言葉や内容と出会った事があるのだけど、
自分自身を罰する事に関して、なんとなく感じるものが、
自分で自分を許す事、自分で自分を愛する事、
自分で自分を認めて、受け入れる事が必要で大切なんじゃないかなぁ?
って思う。
許しってどういうものなのか、
あたしは、まだちゃんとわかっていないけれど、
あたしの価値感の中ではのお話だけれど、
あたしが思う許し、
あたしの価値感での許しというものは、
自分に対して向けるものみたいな感じがある。
これは認めるに関してもそうで、
誰かを認める認めないってあたしの中ではなんか不自然で、
愛する事は、
自分も相手も愛する事に、なんの不自然さも感じないけれど、
許しは、
あたしの中ではのお話だけれど、自分に対して使うものみたいな、
なんかそんな感じがある。
コメント
コメントを投稿